レファレンス事例紹介「目黒ばやしの由来や内容、現在までについて知りたい」

質問内容 

「目黒ばやし」の由来や内容、現在までについて知りたい

回答の概要

1 目黒ばやしとは
「目黒ばやし」は江戸時代文化・文政期頃(1804年から1830年)に行われ始めた祭礼ばやしであり、目黒を中心とした城南地方一帯や三多摩地方のはやしに対してつけられた名称である。

2 由来
江戸時代後期の文化・文政期の頃、神楽のはやしに賑やかさや曲調の変化を加えた江戸の祭礼ばやしが葛西で起こり、そこから各所で盛んに演奏されるようになった。
「目黒ばやし」は、「葛西ばやし」を基にした祭礼ばやしが、深川や神田、佃、三輪方面などに伝わり、そこから目黒にも伝わって定着し、発展したと考えられる。特に、「神田ばやし」を基に独自の郷土色を加えたものが、現在まで「目黒ばやし」として伝えられている。

3 他地域への広がり
「目黒ばやし」から、さらに他の地域に伝わった祭礼ばやしとして、世田谷の「瀬田囃子」、「岡本囃子」、「奥沢囃子」、「野良田囃子」、「等々力囃子」、品川の「大井囃子」、府中の「府中囃子」などがあり、これらは「目黒ばやし」の系統としてあり、また、江戸時代の参勤交代によって、地方にも「目黒ばやし」が広がったとある。

4 明治維新以後の発展・衰退期から現在まで
明治維新前後に政情の不安や世相の混乱などから目黒ばやしが、一時衰退し、独自の曲目である目黒の「本間矢車」、碑文谷の「大幕(おおばく)」、上目黒の「本間崩」などの曲目について伝承が途絶えた。
西南の役(1877年)以降、目黒ばやしの再興の機運が高まり、1884年の神田明神の祭り(神田祭)で、東京市内近郊の囃子連が集まり、祭礼ばやしの競演を行った際に、目黒ばやしの名手による演奏が喝采を博したとあり、この頃が「目黒ばやし」の最盛期であると伝えられている。
大正時代以後は、文物の発展などにより再び衰退し、戦後は、伝承者が高齢化により激減した。伝承者の消滅危機や1954年に「神田ばやし」や「葛西ばやし」が東京都の無形文化財に指定されたことなどを受け、「目黒ばやし」文化について憂慮した有志によって「目黒ばやし」を保存し、後世に伝承していく目的で、昭和29年(1954年)に保存団体「目黒ばやし保存会」が設立された。
その後、昭和53年(1978年)3月22日に目黒区の区指定無形民俗文化財(民俗芸能)に指定され、現在は、「碑文谷地区の門前ばやし(目黒ばやし)保存会」と、自由が丘・緑が丘地区の「目黒ばやし保存自緑会」、東が丘地区の「目黒囃子東が丘保存会」の3団体が、保存団体として認定されており、芸の保存と後継者の育成を行っている。

5 演奏・曲目
 (1)演奏体制、楽器の名称について
「楽器は五人を以て一組とし、小鼓、大鼓、笛、鉦の四種で小鼓はシラベと言う、笛と共に、はやしの中心であるから、心(シン)と唱えられている。笛は大和笛と言われ、普通の笛より少し長い、これをトンビとも言う。鳶の鳴き声に似ているからであろう。鉦を四助と言うのは、他の四人を助けて威勢のよい音の高い鉦であるからこの名があるという。」(『無形文化財 目黒ばやし』p.7)とある。
 (2)現在伝承されている曲目について
ア 昭和53年3月に区指定無形民俗文化財認定を受けた曲目
「鎌倉、破矢、昇殿、市調目、亀戸、宮昇殿、宮鎌倉、国固め、神田丸」(『東京都目黒区指定文化財調査報告書 第1集』p.16)とある。
また、「曲目には、門前ばやし保存会に「鎌倉」「破矢」「昇殿」「士調目」「亀戸」等があり、目黒ばやし保存自緑会に「破矢」「宮昇殿」「鎌倉」「宮鎌倉」「国固め」「士調目」「亀戸」「神田丸」等がある。」(『東京都目黒区指定文化財調査報告書 第1集』p.18)とあり団体ごとに、保存されている曲目が異なることがわかる。
イ 平成2年6月に区指定無形民俗文化財認定を受けた曲目
「曲目 破矢・宮昇殿・鎌倉・宮鎌倉・国堅・士調目・獅子舞・仁羽・神楽昇殿・数え唄・子守唄・他」、「神楽演目 獅子舞・大黒舞・数え唄・子守唄 目黒の農村生活をパントマイム化したもの。」『東京都目黒区指定文化財調査報告書 第4集』p.20)とある。

調査した内容 

1 目黒ばやしについて
目黒区ウェブサイト「歴史を訪ねて 目黒の祭」に「江戸の祭りばやし「神田ばやし」を基に、独特の郷土色を加えた「目黒ばやし」が今に伝えられている。」とある。

2 由来
 (1)江戸の祭礼ばやしの由来と目黒への伝来
「享保初年頃のこと、今の葛飾区金町に在る葛西神社が江戸葛西領の香取明神と言われていた頃、この明神の神主であった能勢環は芸能に勝れた文化人であったらしく、神霊を慰める為神楽ばやしの調子を取り入れ、或型のはやしを作り出し、自作の和歌を唄いながら、笛、太鼓ではやしたて若者に教え、だんだん盛んになって、附近の農村から江戸に伝わった。これを時の関東代官伊奈半左エ門忠順が、農村娯楽と敬神の為め、五穀豊穣の奉納ばやし、と呼ばせ、祭礼行事とさせたから、代官様のお声がかりと又当時の素朴な民情に適し、忽ち江戸中に大流行し深川、神田、三輪方面から目黒地方に及んだ。そうして色々の曲目が出来、はやし方も亦改善されたことと思われる。これが祭礼ばやしの発祥の由来といわれている。」(『無形文化財 目黒ばやし』p.4)とあり、享保時代(1716年~1736年)頃に発生した「葛西ばやし」が江戸中に伝わり、その流れで目黒にも伝わったことがわかる。
また、「目黒ばやしは葛西の「葛西ばやし」の別流の江戸川の「葛西ばやし」を基にした「神田ばやし」が目黒に伝わったもの」(『無形文化財 目黒ばやし』p.13)とある。
 (2)「目黒ばやし」としての発展
「祭り囃子の本流ともいわれるものが「神田ばやし」で、その流れを汲むものが「目黒ばやし」といわれ、「神田ばやし」に目黒独特の郷土色が盛り込まれている。」(『めぐろの文化財 増補改訂版Ⅲ』 p.102)とある。
また、「現存する江戸祭礼ばやしと比較すると、音楽的には神田囃子に一番近似していることが明らかである(中略)報告書にも目黒ばやしはあらゆる点で充分に古制の姿をとどめていると考えられ、音楽文化財として優れたものである、と報告されている。」(『郷土目黒 第36集』p.39)とある。

3 他地域への広がり
「目黒ばやしは目黒を中心とした城南地方一帯の囃子に附せられた名称」、「目黒ばやしの隆盛により大井、馬込、玉川、三多摩方面に伝わり、又参勤交代により各藩にも伝わり」(『無形文化財 目黒ばやし』p.3、p.5)とある。
また、「目黒囃子系統は、瀬田囃子保存会、岡本囃子保存会、奥沢囃子保存会、野良田囃子保存会、等々力囃子保存会がある」(『郷土目黒 第36集』p.40)、「品川区大井囃子保存会」、「府中囃子保存会」などが目黒囃子の系統として掲載されている(『郷土目黒 第36集』p.41~44)ため、他地域への目黒ばやしを基とした祭礼ばやしの広がりがわかる。

4 明治維新以降の発展・衰退期から現在まで
 (1)失われた「目黒ばやし」独自の曲目について
「文化時代は(中略)目黒の本間矢車、碑文谷の大幕、上目黒の本間崩(中略)続々起れり」(国立国会デジタルコレクション『祭礼囃子の由来』7コマ)とあることから文化時代(1804年~1818年)頃にこれらの曲目が起こったことがわかる。
 (2)明治維新前後から明治時代までの盛衰について
「文化文政時代の最盛期は約四十年続いたが、安政年間頃からの内憂外患時代に入り、それから明治維新を経て西南役直後迄の約三十年の空白時代は衰頽の一途をたどり、やつと曲目の保存が出来た処もあるが、多くは先輩の死亡によって失われた。我目黒方面も大幕、本間矢車、本間崩しが失われたのであったが、明治十二、三年頃から勃興に向った。明治二十八年馬込の河原源十郎発行の祭礼ばやし由来記によると、そのころ目黒ばやしの世話人であり、又名人級の人は、中目黒 山口栄治郎 山口修治郎 上目黒 梅沢又治郎 三輪政太郎 沢田助太郎 碑文谷 島半蔵 島鍋次郎 高林徳次郎 河野作次郎 衾 亀井彌三郎 小杉仙太郎 栗山伴蔵 青木由太郎 栗山熊太郎 小山仙太郎 等が居た。(中略)その後再び隆盛となり、明治中期頃は文化文政時代に劣らぬ繁栄となった。明治十七年秋神田大明神大祭のはやしに、各地域から名人が参集して出演し、何れも妙技をつくし観衆を酔わし、大向をうならせ、歓声と拍手はやまなかった。その時最大の人気を呼んだのは、(中略)目黒 笛又(前記の梅沢又治郎) 碑文谷 島半(前記の島半蔵)以上七名の内、五人は葛西ばやし、二人が目黒ばやしであったことを見ても、目黒方面が如何に盛大で、名人が多かったかということがわかる。」(『目黒ばやし』p.5~6)とある。
 (3)大正時代から昭和中期までについて
大正後文物の進歩で自然この種のものは衰え、嘗ては衾村だけでも七十名以上も居り、碑文谷目黒方面にも多数いたが、最近では僅かに、(中略)右十七名の内五十代の三人を除く外は六、七十代で又技能の優劣は別とするも全曲目の知得者は半数位しか無い。」(『目黒ばやし』P6~7)とあり、当時(昭和40年頃)の状況がわかる。
 (4)目黒区指定無形民俗文化財の認定と保存団体について
区指定無形民俗文化財認定理由として、「目黒区の郷土芸能「目黒ばやし」は、目黒に土着以来、百数十年を経たものと推定され、多くの伝承者の努力によりその伝統は保持され、現在二つの保存団体があり、それぞれ後継者の育成に努めている。
目黒ばやしは、江戸の祭ばやしの古格をふまえながら、その上に目黒独自の郷土色を創りだしたもので、歴史上価値があり、かつ、地域的特色を顕著に示す民俗芸能であり、十分に指定無形民俗文化財としての条件を具備するものである。」(『東京都目黒区指定文化財調査報告書 第1集』p.16)とあり、昭和53年3月に「門前ばやし(目黒ばやし)保存会」と「目黒ばやし保存自緑会」が保存団体として認定されている。
その後、「(1)以前、指定した二つの団体と比較して、その演奏に遜色がない。(2)演奏力・
指導力にすぐれた指導者をもち、後年・中者・若者・子供の各階層が参加しており、その継承に展望がみられる。」(『東京都目黒区指定文化財調査報告書 第4集』p.19」)として、新たに平成2年6月26日、「目黒囃子東が丘保存会」が、認定保存団体に追加されている。
 (5)保存団体の活動拠点、演奏を行う祭礼について(『めぐろの文化財 増補改訂版Ⅲ』 p.102)
ア 門前ばやし(目黒ばやし)保存会
  拠点:碑文谷
  演奏:碑文谷八幡宮の祭礼で演奏
イ 目黒ばやし保存自緑会
  拠点:自由が丘・緑が丘
  演奏:自由が丘熊野神社の祭礼で演奏
ウ 目黒囃子東が丘保存会
  拠点:東が丘
  演奏:八雲氷川神社の祭礼で演奏
 

職員コメント(職員のひとこと)

目黒区内のお祭りなどで演奏されている、「目黒ばやし」の歴史について調べました。
目黒ばやしは、江戸時代から続く伝統的な祭りばやしで、多くの世代の間で伝承・演奏されてきました。また、現在も区内数か所のお祭りで演奏されています。
今回の調査では、江戸の祭りばやしの起こりや発展の過程など、「目黒ばやし」の源流となる事象や「目黒ばやし」が成立した後、文化が継承されてきた流れについて知ることができました。
みなさんも、区内の夏祭りなどに参加された際に、「目黒ばやし」の演奏をご覧になってはいかがでしょうか。

調査した資料の一覧 

No タイトル 著者名 出版者 出版年 参考ページ
資料1   無形文化財 目黒ばやし 目黒区教育委員会/編 目黒区教育委員会 1965 p.2~p.9
p.11~p.13
資料2 歴史を訪ねて
月刊めぐろ(’79・6~’84)より抜粋
目黒区企画部広報課/編 目黒区企画部広報課   p.11
83.9の記事「祭」の項
資料3 郷土目黒 No.1~2
目黒区郷土研究会/編 目黒区郷土研究会
1958 p.34~p.37
資料4 郷土目黒 第36集 目黒区郷土研究会/編 目黒区郷土研究会  1992 p.39~p.44
資料5 東京都目黒区指定文化財調査報告書 第1集 目黒区教育委員会/編
目黒区教育委員会
1979 p.6~p.25
資料6
東京都目黒区指定文化財調査報告書 第4集 目黒区教育委員会/編
 目黒区教育委員会 1994 p.18~p.21
 資料7 めぐろの文化財  目黒区教育委員会事務局生涯学習課文化財係  目黒区教育委員会事務局生涯学習課文化財係  2015  p.102、p.103

調査したWEBサイトのURL(最終アクセス日2025年5月23日)


  1. 目黒区ウェブサイト「目黒ばやし 区指定無形民俗文化財(民俗芸能)」
    https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/megurobayasi.html
  2. 目黒区ウェブサイト「歴史を訪ねて 目黒の祭り」
    https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/matsuri.html
  3. 国立国会デジタルコレクション『祭礼囃子の由来』河原源十郎/著
    https://dl.ndl.go.jp/pid/815397/

事例作成日

令和7年5月