1.東京都立大学が目黒区に拠点を定めた経緯/関与した人物
(1)『旧制高等学校生の青春彷徨』(B12135242)P.41
旧制府立高等学校は設置当初、旧制府立一中(現:都立日比谷高校)の敷地(永田町山王台(現:千代田区永田町))内に間借りしていた。
移転候補地として挙がった場所、及び荏原郡碑衾町(現:目黒区八雲)に至った経緯の記載がある。
東横電鉄が街づくりのため、学校誘致に積極的であったと記載がある。
(2)『目黒の近代史を古老にきく』(B10750083)P.42
目黒区制50周年を記念し開催された「古老座談会」の記録。岡田衛「明治・大正・昭和の碑衾の歴史を語る」(座談会の第1回・第2回)
『東京都立大学三十年史』(B10749682)P.593
東横電鉄(現:東急電鉄)社長であった五島慶太氏の買収あっせんの労により、府立高等学校の土地が確保された経緯が記載されている。
(3)『東京都立大学三十年史』(B10749682)P.30
「開校三年後府立高校は、当時、杉の木立、竹やぶと坂道、そして農家と植木屋が点在する近郊の目黒・柿の木坂(府下荏原郡碑衾町)の新校舎 に移転した。」と記載がある。
(4)『東京都立大学五十年史』(B10163876)P.3
校名の変遷が記載されている。
既に設置されていた東京高等学校(官立)との混同を避けるため、「府立高等学校」とし、1943(昭和18)年7月1日都制実施に伴い「都立高等学校」に変更した(校名の変遷は東急東横線の駅名にも反映している)。
2.八王子市南大沢への移転/跡地への地元の反応
(1)『東京都立大学五十年史』(B10163876)P.75
校地の狭あい性が特に問題視されており、1960年代後半から校地獲得を要望する声が高まっていた。
1970年代に立川(基地跡地)移転計画が持ち上がったが、立川市からの反対により行き詰った。
1984(昭和59)年7月 多摩ニュータウン西部地区移転へ向けた基本構想計画策定への方針決定。
1988(昭和63)年8月 新キャンパス建設工事 着工
1991(平成3)年3月 全学移転完了
(2)『どーなってるの?都立大跡地 区民が語った記録集』(B10203439)「都立大跡地を考える区民の集い」の活動記録 P.1
「都立大跡地の“これから”は私たち目黒区民にとって、最も身近で、最も大きな、まちづくり・地域づくりの課題です。・・・区民自身の手で自主的に・・“区民のつどい”をご一緒に創り上げてみませんか。」以上の呼びかけにより地元住民が「都立大跡地を考える区民のつどい」を結成し、地元の要望をまとめ、行政と協議を重ねた。
3.駅名の変遷
(1)『回想の東京急行1』(B10077654)P.55
東横線の開通当時、住宅地は碑文谷(現:学芸大学)までで、柿の木坂周辺は畑と雑木林、竹林地帯であったとの記載がある。
『東京都立大学三十年史』(B10749682)P.593
都立大学駅は、学校名の変更に合わせ、駅名も変更された。
1927(昭和2)年8月28日(開通時) 柿ノ木坂
1931(昭和6)年7月25日府立高等前
1932(昭和7)年3月31日府立高等
1943(昭和18)年12月1日都立高校
1952(昭和27)年7月1日都立大学、現在に至る。
(2)朝日新聞
1999(平成11)年6月10日朝刊35面
東急電鉄は1999年、受験生などから「駅名が紛らわしい」という声が出ていたのを受けて、学芸大学、都立大学の両駅の地元である目黒区民に駅名変更に関するアンケートを行った。3分の2以上の賛成があれば変更する方針としていた。
1999年7月2日 朝刊 35面
6月30日に締め切ったアンケートでは、駅名変更に必要とした賛成票は3分の2に届かず、駅名は存続することとなる。
職員コメント(職員のひとこと)
現在は公園、図書館、体育館、多目的ホール等、区民の貴重な憩いの場となっているめぐろ区民キャンパスですが、かつてのこの場所の変遷について、思いを巡らせることができました。
これまでに都立大学に関するお問い合わせは複数あり、個別に調査・回答していましたが、今回、まとまった形でご紹介できる意義は大きいと感じています。
都立大学があった手がかりとして、敷地北側に、大学の門跡の一部が保存されています。
めぐろ区民キャンパス周辺散歩の際、ご覧になってはいかがでしょうか。