質問内容
「八雲」という地名の由来を知りたい
回答の概要
1 「八雲」の成立
現在の八雲一丁目から五丁目までは、昭和39年(1964年)7月の住居表示実施にともなって衾町(ふすまちょう)・宮前町(みやまえちょう)・中根町(なかねちょう)・大原町(おおはらまち)・芳窪町(よしくぼちょう)の一部が合併して、成立した。
その際に同地に所在する学校の名前でもあった「八雲」を採用して町名にした。
2 八雲小学校の設立と学校名の由来
八雲小学校は、明治4年(1871年)、太子堂郷学校の衾村分校として設立されたが、同7年に独立校となった際、八雲小学校と命名された。
校名の由来は、隣接する氷川神社の祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が奇稲田姫(くしなだひめ)に詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌に因んだ、とされている。
調査した内容
1 住所表示実施にともなう「八雲」の成立
住居表示実施にともなう「八雲」という町名の成立については、『東京の地名由来辞典』にわかりやすい記載があった。また、住居表示実施の状況については、『目黒区五十年史』に詳しい記載があった。
(1)『東京の地名由来辞典』に「八雲」の項目が立てられ、以下の記載があった。
〔八雲 やくも (目黒区)〕(p.418)
この一帯は、江戸時代には荏原郡衾村に属しており、同地には村の鎮守社である氷川神社が鎮座している。明治4年(1871)、太子堂郷学校の分校として衾村分校が設立され、同7年、独立校となるにおよび校名を八雲小学校と命名した(目黒大観)。校名の由来は、氷川神社の祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が奇稲田姫(くしなだひめ)に詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌に因む。昭和39年(1964)7月の住居表示実施にともなって衾町・宮前町・中根町・大原町・芳窪町の一部が合わさり八雲1~5丁目までが成立、その際に同地に所在する学校名でもあった八雲を採用して町名にしたという。
(2)『目黒区五十年史』p.114~119に、目黒区行政区画変遷の表が掲載されている。また新住居表示の実施についての記載があった。
〔新住居表示の実施〕(p.490)
昭和39年に入ると、新しい住居表示制度への切替え作業が開始された。実施対象区域は目黒区の全域で、昭和42年3月末までに順次実施されることになり、五期に分けた実施予定地域が次のとおり決められた。
<第一期実施予定地区>=大原町、芳窪町、衾町、宮前町、中根町の一部……(中略)
しかし、作業は実際にはこの予定どおりには進行せず、新住居表示の実施は39年7月1日に行われた東が丘1・2丁目、八雲1~5 丁目(旧大原町、芳窪町、衾町、宮前町の全域と中根町の一部)を最初に……(以下略)
2 八雲小学校の設立と学校名の由来
八雲小学校の設立については、『目黒区大観』、『目黒区教育百年の歩み』、『碑衾町誌 市郡合併記念』、『東京の地名を歩く 第一巻』等に記載があった。
(1)『目黒区大観』現勢編に以下の記載があった。
〔各小学校の沿革 八雲尋常高等小学校〕(p.62)
本区最古の小学校にして、明治4年1月20日太子堂村(現世田谷区)に郷学所が設けられ、同年6月3日に開校されて間もなく、衾村に於ても子弟教育機関の必要を感じ、同年8月23日に分離して、分校所として衾村氷川神社の西隣に在る、常時無住なりし金蔵院に創立せられ、明治5年4月より開校授業を行ったものが、現在八雲校の発祥である。(中略)……その校名も村の鎮守氷川神社の祭神素戔嗚尊の御歌「八雲たつ出雲八重垣」に因んで『八雲校』と命名……(以下略)。
(2)『目黒区教育百年の歩み』 に以下の記載があった。
「衾村には安政3年から宇東三谷(現柿の木坂1の13)で新倉塘十郎が寺子屋を開き、書道のほか、四書・五経などの初歩を指導していた。(中略)
明治4年4月の太子堂郷学所本校設立に伴い、新倉塘十郎はその教師となり、この寺子屋で学んでいた子供たちも郷学所に通うことになった。しかし郷学所は衾村から一里(約4Km)以上も離れ、通学するにも大変困難であったので、衾村の名主たちは村の子どもたちのために郷学所の分校を衾村に設立することを計画した。(中略)
4年8月15日 [名主]岡田弥兵衛ら四人が、当時の五人組の代表を交えて衾村分校設立について相談した後、8月16日 村の代表者による会議で衾村に分校所を設けることは了承され、8月17日 教師、年寄、名主の連盟で品川県庁に分校設立の願書を提出した。(中略)
この願いがどう扱われたかは不明だが、このすぐあとの8月23日に、衾村と同様の事情があった上北沢村とともに分校設立願を再び品川県庁に提出した。(中略)この願いは先の願いとほぼ同じ内容であるが、衾村には生徒が150人くらいいる、校舎ができるまでは無住空屋の金蔵院を教場に充てたいなど、具体的に述べられていた。
願いは即日品川県庁から認可され(中略)、この認可により、衾村では村の中央にあたる宮ケ谷戸(現八雲小学校地)に分校の建設を始めた(以下略)」(p.33-36の記載より抜粋要約)
「八雲という校名は、「古事記」にある須佐男命(学校に隣接する氷川神社)の「八雲顕つ 出雲八雲垣妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」の歌からとったものであるという。この八雲の校名は、「東京府志料」(明治5年)や八雲学校備金台帳(同6年)、六小区扱所からの文書などから、公立小学として認可される以前から一般に使用されていたと思われる。」(p.51)
(3)『碑衾町誌 市郡合併記念』 に以下の記載があった。
〔八雲尋常高等小学校 校名の由来〕(p.211)
八雲小学校は明治4年8月23日太子堂村郷学所から分離し分校所として衾村氷川神社の西隣に在る無住の金蔵院に創立されたのであった。(中略)
やがて校名も氷川神社の祭神なる素戔嗚尊の御歌「八雲たつ出雲八重垣」に因んで八雲学校と定められ……(以下略)
(4)『東京の地名を歩く 第一巻』 に以下の記載があった。
「<八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を>。
都立大学のある八雲は、この日本最初の歌にちなむ。昭和39年実施の住居表示で、それまでの宮前、大原、芳窪、中根、衾(ふすま)各町の一部を合わせ、新町名八雲が誕生した。(中略)
しかし、町名より先に、学校名としての八雲があった。明治4年太子堂郷学所(世田谷区若林小学校の前身)の衾村分校が発足。明治7年、独立して八雲小学校となった。いまの八雲小学校で、目黒区で最も古い歴史を誇る小学校だ。こちらが<八雲立つ……>を拝借した大先輩である。」(p.104)
なお上記資料の引用に際し、旧漢字は新漢字に、漢数字は算用数字に改めました。
職員コメント(職員のひとこと)
目黒区の町名については、『東京の地名由来辞典』がわかりやすく、調べるための初めの一歩として適切だと思いました。
「由来については不明」とされている項目もありますが、現在の町名のすべてが項目になっているので、心強く感じました。
「地名がわかる本」「東京の地名」といったタイトルの本は、昔ながらの地名にページを割かれていることが多く、「八雲」のように昭和期以降に成立した地名について書かれていないため、この辞典の存在は貴重です。
調査した資料の一覧