質問内容
「大石橋」という橋が区内にあったようだが、記述が2通りあり場所が特定できない。
一つは昭和24年6月21日の「目黒区政ニュース」に記載されていたもので「碑文谷氷川神社前」(すなわち呑川)。
もう一つは『目で見る目黒の100年』に記載されていたもので「目黒郵便局前」(すなわち品川用水)。
どちらが正しいか。あるいは、どちらも大石橋だったのか。
回答内容
以下の資料などを調査した結果、目黒区内の「大石橋」は、唐ヶ崎町(現中央町1丁目)の品川用水と、中根町(現八雲2丁目)の呑川の最低2か所に存在したと考えられる。
調査した内容
1 レファレンス依頼者の見た資料の確認
(1)資料1『目で見る目黒区の100年』
p.49に「大石橋上のオープンカー(昭和11年)」という写真の掲載あり。「場所は、今の目黒通りの目黒局前交差点である。右端に橋の欄干が見える。当時は品川用水が流れていて、そこに架かっていた大石橋である。」の解説あり。
(2)『目黒区政ニュース』
資料2『広報めぐろ縮刷版 上巻』に収録。昭和24年6月21日の当該記事(p.65)に、「改修後の大石橋」の写真と「大石橋(木橋)改修工事なる」の見出しで「大石橋(中根町二五三、碑文谷氷川神社前)改修工事は~」と記載あり。
2 品川用水の「大石橋」について
(1)資料3『品川用水沿革史』
p.266「品川用水路現状観察記」に「主なる橋名は大石橋(唐ケ崎町)」の記載あり。
(2)資料4『めぐろの昔を語る』
p.148に「大正末年までの目黒の洗い場」として、「唐ヶ崎618 品川用水、大石橋交番前」の記載あり。
(3)資料5『郷土目黒』第33集
p.80に「碑衾村衾で誕生した目黒の乗合馬車」に「目黒の乗合馬車路線略図」があり、停留所名として「競馬場前」と「鷹番」の間に「大石橋」の記載あり。
3 呑川の「大石橋」について
(1)資料6『写真集目黒の風景100年』
p.18に「その他の特殊地図」として「明治~大正期の八雲小周辺」が掲載
呑川にかかる「大石橋」及び「この辺(=大石橋)でシジミがとれた」記載あり。
(2)資料7『めぐろ』
p.81「むかしの地図」中に「大石橋」記載あり。
4 地図等で「大石橋」の記載がある資料
(1)唐ヶ崎町の品川用水と中根町の呑川に「大石橋」の記載あり。
資料8『東京府荏原郡碑衾町全図 昭和6年』(めぐろ電子図書館所蔵)
(2)唐ヶ崎町の品川用水に「大石橋」の記載あり。
資料9『目黒区詳細図 昭和8年』(めぐろ電子図書館所蔵)
(3)目黒本町2丁目に「大石橋」派出所、八雲2丁目の呑川に「大石橋」の記載あり。
資料10『都市計画街路網図』
(4)中根町の呑川に「大石橋」の記載あり。
資料11『目黒区1:15000 昭和33年』
(5)八雲2丁目の呑川に「大石橋」記載の記載あり。
資料12『目黒区全図 昭和41年度版』
資料13『目黒区都市計画図』
5 唐ヶ崎町の品川用水と中根町の呑川両方記載のある資料
(1)資料14『目黒区政概要 昭和25年度』
第3節橋梁の状況
4品川用水架橋「大石橋 唐ヶ崎618」(p.149)
7呑川同支流架橋「大石橋 中根町1863」(p.151)
(2)資料15『区勢概要 昭和33年版』
第9編土木 橋梁 区内の橋梁一覧
都道「大石橋 唐ヶ崎618 旧品川用水」(p.237)
特別区道「大石橋 中根町243 呑川」(p.242)
参考資料
調査者コメント(職員のひとこと)
かつて品川用水と呑川にかかっていた2か所の大石橋。現在では、交通量の多い目黒通りと落ち着いた住宅街と対照的な場所になっています。しかし目黒通りができるまで、この2か所は、目黒権之助坂から唐ヶ崎で大石橋を渡り鷹番、柿の木坂を下って、(現在の目黒通りの北側、商店街をぬけ)八雲小学校、氷川神社前で曲がって大石橋を渡り、氷川坂を登って等々力に至る一本の道でした。この道を、大正8(1919)年にバスに置き換わるまで、乗合馬車が往復していました。
このレファレンスを通して、今まで知らなかった目黒の歴史の一端にふれることができました。