質問内容
現在、目黒区総合庁舎がある場所は、千代田生命本社、アメリカンスクール、牧場だったと聞いている。明治から昭和60年代にかけての写真や地図を見たい。
回答の概要
1 目黒区総合庁舎
平成15(2003)年1月から現在に至る。(令和6(2024)年1月で21年目)
千代田生命ビルを改修工事(2002年4月から2003年4月まで)のうえ庁舎として使用。
2 千代田生命本社
昭和41(1966)年5月竣工(7月使用開始)から平成12(2000)年12月まで(34年間)
複数の資料に多くの写真があります。多くの住宅地図などに掲載があります。
3 アメリカンスクール
昭和2(1927)年(港区から移転)から昭和38(1963)年(調布市に移転)まで(36年間)
写真は数点あります。地図は昭和初期のものから多数の地図に掲載されています。
4 浅海牧場(目黒軒)
明治35(1902)年頃から昭和4(1929)年まで(27年間)
(資料によっては大正11(1922)年頃までと記載のある場合もあります。20年間)
証言や資料は多数ありますが、写真は見つけられませんでした。
地図は大正14年の地図に「浅海牧場」と記載がありますが、いくつかの証言よりはだいぶ小さくなっています。
明治期の地図では牧場は確認できませんでした。
調査した内容
1 住所の変遷(資料1『目黒区五十年史』114ページ「目黒区行政区画変遷」より)
上目黒二丁目19番15号(目黒区総合庁舎)=現在
上目黒二丁目1985番地(千代田生命・アメリカンスクール)=昭和43年1月1日住居表示前
目黒村字上目黒二丁目1985番地(牧場の住所は上目黒二丁目1944番地:地図では同区画内)=昭和7年10月1日区制施行前
上目黒村伊勢脇1944番地=明治22年4月1日町村制施行前
2 千代田生命本社ビル
(1)千代田生命本社ビル建設から総合庁舎まで
資料2『目黒区総合庁舎村野藤吾の建築意匠』
1ページ「目黒区総合庁舎は、かつて千代田生命保険相互会社の本社ビルでした。
1966(昭和41)年5月末に竣工し、同年7月に使用開始した」「総合庁舎としては、2002(平成14)年4月から改修工事を開始」と記載あり。
(2)写真
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資料2『目黒区総合庁舎村野藤吾の建築意匠』
1ページに千代田生命ビル竣工当時(昭和41(1966)年)中目黒駅側からの外観あり
2ページに改修前の築山・広場の写真あり
8ページに総合庁舎竣工当時の中庭池の写真あり
13ページ総合庁舎竣工当時の広場と池の噴水の写真あり。(改修は平成14(2002)年)
- 資料3『建築家・村野藤吾のディテール』
総合庁舎として改修する前に撮影した、千代田生命本社ビルの写真84点あり(内観も含む)
- 資料4『村野藤吾1964-1974』
34ページから53ページに千代田生命本社ビルの外観、庭園、茶室など写真多数あり
- 資料5『目黒の風景いまむかし』
58ページに「東横線中目黒駅付近(平成5年)」の写真あり。街並みと本社ビル(上部)が写っている。
(3)地図
住宅地図ほか千代田生命本社ビルの記載多数あり(資料は一例)
- 資料6『目黒区全住宅案内地図帳 昭和41年』
図1303,1304に記載あり「建設中」
- 資料7『目黒区 2001 ゼンリン住宅地図』
ゼンリン住宅地図には2001年まで図17に記載あり
- 資料8『目黒区全図 一万分の一』推定1970年頃
3 アメリカンスクール
(1)創設から移転まで
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資料1『目黒区五十年史』
992ページ「アメリカンスクール・イン・ジャパン」の項に「目黒のアメリカンスクールとして親しまれたこの学校は、明治三十六年(1903)築地に創設され、芝浦を経て、昭和二年(1927)中目黒へ移転してきた。」「戦時中は生徒が激減し、休校状態となる。
戦後は連合軍に接収され、昭和二十七年(1952)に解除されて一般外国人子女の教育の場となる。」「昭和三十八年(1963)調布市に移転し、目黒における三十六年の歴史を閉じた」と記載あり。
中目黒への移転理由として「広い運動場が確保できること、東横線が開通したことによるという。」と記載あり。
- 資料9『東京都 県別・写真・観光日本案内』
213ページ写真の説明文では「明治35年の創立でアメリカ居留民学校として作られた」となっているが、中目黒に移転してきたのは昭和2年。
- 資料10『東京はじめて物語 銀座・築地・明石町』
180ページから189ページまで、「17アメリカンスクール」の項に、明治から現在までのアメリカンスクールの歴史が記載されている。
目黒キャンパス時代は1927~1962年となっている。
「とりあえず麻布羽沢村で使っていた2階建木造校舎を解体して再建し、(中略)鉄筋コンクリートの2階建の近代的校舎になったのは1934(昭和9)年からである。」と記載あり。
- 資料11『目黒区郷土研究』523、524号(平成10(1998)年8月1日、9月1日号)
「目黒にあったアメリカンスクール(前・後)」として2回にわたり記事あり。
記事は執筆者の子どものころの思い出と、資料10『東京はじめて物語』からの転載。目黒キャンパス時代は524号の(後)に記載あり。
- 資料12『めぐろの昔を語る』
19ページに「浅海牧場の跡に、昭和になりましてアメリカンスクールが出来ました。」「昭和20年の空襲の頃には建物だけのようでしたが、(中略)あの一画には焼夷弾が落とされずに、周りの家は焼け残ったとのことです。」と記載あり。建物は戦前から変わらなかったと考えられる。
- 資料13『目で見る目黒区の100年』
135ページ写真の説明に「同校は明治時代に開校したが、関東大震災に遭い、昭和2年に港区の芝から牧場だったこの地に移ってきた。
その後、昭和38年に調布に移転している。」と記載あり。
(2)写真
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資料14『写真集 目黒の風景100年』
85ページ上段にアメリカンスクールの写真(昭和38(1963)年7月)あり。中目黒小学校から北の方向を撮影した写真に街並みと校舎の上部が写っている。
- 資料15『目黒区のあゆみ』
15ページ上段にアメリカンスクールの写真(年代不明)あり。校庭側より校舎外観。
- 資料13『目で見る目黒区の100年』
135ページにアメリカンスクール(昭和35(1960)年頃)の写真あり。校庭側からツタの絡まる校舎外観。
これは、資料15『目黒区のあゆみ』の写真と同じものと思われる。写真は資料13『目で見る目黒区の100年』の方が大きく鮮明。
- 資料1『目黒区五十年史』
992ページ「アメリカンスクール・イン・ジャパン」の項に横からの建物の写真あり(昭和30年代初め)
- 資料9『東京都県別・写真・観光日本案内』
213ページ「アメリカンスクールの学内風景」の写真あり。校庭の外国人生徒が数人とツタの絡まる校舎の写真。出版された1961(昭和36)年ごろの写真と思われる。
- 資料10『東京はじめて物語』
186ページ「17 アメリカンスクール」の項に「目黒キャンパス(昭和9年ごろ)の野外競技場」の写真あり。
(3)地図
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資料16『目黒区詳細図』 昭和12年(めぐろ電子図書館で閲覧可能-ログイン不要)
中目黒二丁目の同区画内にアメリカンスクールと浅海邸の記載あり。
- 資料17『目黒区全図 上目黒、中目黒、三田、駒場 昭和10年』
図№30アメリカンスクール(上目黒2-1955)と、浅海邸(2-1944、2-1975)あり。
- 資料18『目黒区全図』昭和7年版
上目黒二丁目(伊勢脇)1990番地に「文(地図マーク)」と「アメリカンスクール」の記載あり。
- 資料19『帝都地形図 第3集』(大正12年測図・昭和22年補修)
図34-9(265ページ)「上目黒」にアメリカンスクールの記載あり。
その他昭和30年代から40年代初頭の地図にはほとんどアメリカンスクールの記載あり。
4 牧場
(1)牧場があったころの証言など
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資料20『目黒区郷土研究』48号(昭和34年1月15日号)
4ページ「目黒の牧場」の表に「上目黒2-1944 浅海牧場 浅海清一 創業:明治35年頃 廃業:昭和4年」と記載あり。
- 資料11『目黒区郷土研究』519号(平成10(1998)年4月1日号)
5ページ「『目黒にあった牧場』について」の記事内に「場所:上目黒 牧場名:目黒軒 経営者:浅海氏」とあり。場所と経営者名から判断して目黒軒=浅海牧場と考えられる。
- 資料21『ミルク色の残像-東京の牧場展-』
資料11、20の出典と考えられる。
75ページ「東京牛乳畜産組合員名簿(大正8年現在)」城南支部の表に「浅海文蔵 目黒軒 目黒村字上目黒1944」の記載あり。(ほかにも目黒村に8か所、碑衾村に3か所の牧場があったことが記載されている。)
- 資料22『目黒区大観』
人物篇144ページ「『浅海清一氏』 多年牧場を経営せしが当主の代となりて大正11年に廃業す。」と記載あり。牧場の写真なし。
- 資料23『グラフめぐろ No.6』
22ページ「千代田生命本社から蛇崩川までがずっと牧場の敷地でした」「その牧場が大正の末に経営的に行き詰まった。
次々と土地を手放していき、ついには廃業に追い込まれていった」と記述あり。牧場の写真なし(明治末の目黒銀座の商店前の記念写真あり)。
- 資料12『めぐろの昔を語る』
19ページ「現在立派な千代田生命保険会社のございます所は、大正の頃は浅海牧場で、広い高台の草原には牛が放されて長閑な風景でした。
駒沢通りに面した低い所に牛乳屋のお店があり、牛乳を細長いビンに針金で口を開閉する栓がついた牛乳を配達していました。」と記述あり(写真・地図なし)。
- 資料24『目黒の近代史を古老にきく 2』
70ページ「千代田生命のところは、元アメリカンスクールで、その前は浅海精市さんの牧場でした」との記述あり(写真・地図なし)
- 資料25『居ごこちのよい旅』
108ページ「浅海牧場の牛乳は甘くて美味しかった」「目黒川には水車小屋もあり、いくつも洗い場があった、その洗い場で牛を洗っている姿もよく見たもんだ。
浅海牧場の牛乳は町の住民へ配達もしていた」との記述あり(写真・地図なし)
(2)明治から大正の写真、地図
この時代の写真は、近くの目黒銀座や祭礼の写真があるのみで、牧場の写真なし。
- 資料26『大日本職業別明細図 世田谷町目黒町駒沢村碑衾村』大正14年
番地表示はないが、正覚寺の斜め向かいに「浅海牧場」の表示あり(地図ニ七)
牧場はだいぶ小さく表示されていて、千代田生命になる部分にはかかっていない。
ほかの明治・大正時代の地図は、田畑、荒地等の記号のみで、所有者や具体的な名称などは記載なし
- 資料16『目黒区詳細図』 昭和12年 (めぐろ電子図書館で閲覧可能-ログイン不要)
牧場を廃業した後の地図ですが、浅海邸が中目黒二丁目に記載があります。
職員コメント(職員のひとこと)
アメリカンスクールがあったことは聞いていましたが、戦後に建てられたものと思っていました。
関東大震災を機に昭和2年に港区芝から移転し、戦争中も建物が残っていて、戦後は連合国軍に接収されていた(目黒区五十年史より)とは驚きでした。
浅海牧場については、「牛乳がおいしかった」とのお話があり、戦前の中目黒には、のどかな牧場風景が広がっていたようです。
写真を発見できず残念です。
調査した資料の一覧
調査したWEBサイトのURL (最終アクセス日 令和6年1月10日)
1.めぐろ電子図書館(資料14『目黒区詳細図』 昭和12年)
(外部ウェブサイトに遷移します)
事例作成日
令和6年1月10日